フランクルの語る「還相」
2012年 01月 28日
No.341
☆わたしは、今、ガンの体験から、「絶望」についての考察を進めていて、
それで、前回は『死にいたる病』について書いたのだった。
キルケゴールの
「信仰を見出さない自己はすべて絶望の状態にある」という言い方は、
わたしなりに言い換えると、
「言葉も含めて人間の存在が生命の形態であることを見失った自己は
すべて絶望の状態にあり、
その究極の形態が時代病としての<癌>である」
ということになる。
これはいい勉強になった。
今週、次に「絶望」の考察に選んだのは、
前から、うちのカミさんに読め読めと言われていた
『夜と霧』(E・V・フランクル 池田香代子訳 みすず書房)だった。
わたしが注目したのは二点。
一点目は、
極限状況にあっては、絶望が生理的な死に直結するという具体例が示されている点で、
これについては、別の機会に示したいと思う。
もう一点、
強制収容所の体験はまさに絶対的な死に直面する体験であり、
それは、いわゆる
「死にゆく過程の5段階(否認⇒怒り⇒取り引き⇒抑鬱⇒受容)」をすべて含んでおり、
なおかつ、<受容>の先に死に至るのでなく、
再び、現実に向わなければならず、
その際に、
「生きる意味についての問いを百八十度転換する必要がある」と
フランクルが語っている点だ。
「わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、
生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ」
「生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを
思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。」
フランクルは、極限状況の中、倉庫に忍び込みジャガイモを盗んだ犯人を差し出す代わりに、
被収容者全員(2500名)が一日の絶食を課せられた夜に、
つまり、仲間を絞首台に送る代わりに、
わずかな栄養源である水のようなスープにさえありつけず断食を強いられ、
気分が最悪だった日の夕方、
居住棟の班長に促され、
次のようにみんなに語ったという。
「(略)わたしは最後に、生きることを意味で満たすさまざまな可能性について語った。
『人間が生きることには、つねに、どんな状況でも、意味がある。
この存在することの無限の意味は苦しむことと死ぬことを、苦と死をもふくむのだ、』
『わたしたちひとりひとりは、この困難なとき、そして多くにとっては
最後の時が近づいている今このとき、
だれかの促すようなまなざしに見下ろされている、
だれかとは、友かもしれないし、妻かもしれない。
生者かもしれないし、死者かもしれない。
あるいは神かもしれない。
そして、わたしたちを見下ろしている者は、失望させないでほしいと、
惨めに苦しまないでほしいと、
そうではなく誇りをもって苦しみ、死ぬことに目覚めてほしいと
願っているのだ、と。』
生きる意味を外部に求め、問い続けても答えは出ない。
そうではなくて、死ぬことを受容した者は、また、現実に立ち戻る。
自身の現実こそが、問いであり答えである。
そのように自己に立ち戻った存在は、
あるまなざしに見下ろされている。
すなわち、自己を客観視する全体的な視線を獲得している。
そう、フランクルは言っている。
フランクルは、吉本隆明の言う「還相」の言葉を口にしている。
わたしにはそう見える。
わたしは、やっと「還相」を了解できた。
フランクルが教えてくれた。
☆小沢一郎を起訴議決した検察審査会の不正疑惑について
追及を続けてきた、「一市民T」が、
この冤罪捏造事件の黒幕が「最高裁事務総局」であったことを突きとめている。
※ブログ「一市民が斬る」参照
この日本という国を支配している権力システムの一つの頂点が、
これでまた白日の下にさらされてきた。
こういうことは非常に大事である。
権力は光を嫌い、
語られれば語られるほど力を弱めるものだからである。
それにしても、事務総局が司法を仕切っていたとは。
なんとも恥ずかしい国である。
20120128
☆わたしは、今、ガンの体験から、「絶望」についての考察を進めていて、
それで、前回は『死にいたる病』について書いたのだった。
キルケゴールの
「信仰を見出さない自己はすべて絶望の状態にある」という言い方は、
わたしなりに言い換えると、
「言葉も含めて人間の存在が生命の形態であることを見失った自己は
すべて絶望の状態にあり、
その究極の形態が時代病としての<癌>である」
ということになる。
これはいい勉強になった。
今週、次に「絶望」の考察に選んだのは、
前から、うちのカミさんに読め読めと言われていた
『夜と霧』(E・V・フランクル 池田香代子訳 みすず書房)だった。
わたしが注目したのは二点。
一点目は、
極限状況にあっては、絶望が生理的な死に直結するという具体例が示されている点で、
これについては、別の機会に示したいと思う。
もう一点、
強制収容所の体験はまさに絶対的な死に直面する体験であり、
それは、いわゆる
「死にゆく過程の5段階(否認⇒怒り⇒取り引き⇒抑鬱⇒受容)」をすべて含んでおり、
なおかつ、<受容>の先に死に至るのでなく、
再び、現実に向わなければならず、
その際に、
「生きる意味についての問いを百八十度転換する必要がある」と
フランクルが語っている点だ。
「わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、
生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ」
「生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを
思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。」
フランクルは、極限状況の中、倉庫に忍び込みジャガイモを盗んだ犯人を差し出す代わりに、
被収容者全員(2500名)が一日の絶食を課せられた夜に、
つまり、仲間を絞首台に送る代わりに、
わずかな栄養源である水のようなスープにさえありつけず断食を強いられ、
気分が最悪だった日の夕方、
居住棟の班長に促され、
次のようにみんなに語ったという。
「(略)わたしは最後に、生きることを意味で満たすさまざまな可能性について語った。
『人間が生きることには、つねに、どんな状況でも、意味がある。
この存在することの無限の意味は苦しむことと死ぬことを、苦と死をもふくむのだ、』
『わたしたちひとりひとりは、この困難なとき、そして多くにとっては
最後の時が近づいている今このとき、
だれかの促すようなまなざしに見下ろされている、
だれかとは、友かもしれないし、妻かもしれない。
生者かもしれないし、死者かもしれない。
あるいは神かもしれない。
そして、わたしたちを見下ろしている者は、失望させないでほしいと、
惨めに苦しまないでほしいと、
そうではなく誇りをもって苦しみ、死ぬことに目覚めてほしいと
願っているのだ、と。』
生きる意味を外部に求め、問い続けても答えは出ない。
そうではなくて、死ぬことを受容した者は、また、現実に立ち戻る。
自身の現実こそが、問いであり答えである。
そのように自己に立ち戻った存在は、
あるまなざしに見下ろされている。
すなわち、自己を客観視する全体的な視線を獲得している。
そう、フランクルは言っている。
フランクルは、吉本隆明の言う「還相」の言葉を口にしている。
わたしにはそう見える。
わたしは、やっと「還相」を了解できた。
フランクルが教えてくれた。
☆小沢一郎を起訴議決した検察審査会の不正疑惑について
追及を続けてきた、「一市民T」が、
この冤罪捏造事件の黒幕が「最高裁事務総局」であったことを突きとめている。
※ブログ「一市民が斬る」参照
この日本という国を支配している権力システムの一つの頂点が、
これでまた白日の下にさらされてきた。
こういうことは非常に大事である。
権力は光を嫌い、
語られれば語られるほど力を弱めるものだからである。
それにしても、事務総局が司法を仕切っていたとは。
なんとも恥ずかしい国である。
20120128
# by sola-tuusin | 2012-01-28 20:08 | Trackback | Comments(0)

