IE9ピン留め

フランクルの語る「還相」

No.341
☆わたしは、今、ガンの体験から、「絶望」についての考察を進めていて、
それで、前回は『死にいたる病』について書いたのだった。
キルケゴールの
「信仰を見出さない自己はすべて絶望の状態にある」という言い方は、
わたしなりに言い換えると、
「言葉も含めて人間の存在が生命の形態であることを見失った自己は
すべて絶望の状態にあり、
その究極の形態が時代病としての<癌>である」
ということになる。
これはいい勉強になった。

今週、次に「絶望」の考察に選んだのは、
前から、うちのカミさんに読め読めと言われていた
『夜と霧』(E・V・フランクル 池田香代子訳 みすず書房)だった。

わたしが注目したのは二点。
一点目は、
極限状況にあっては、絶望が生理的な死に直結するという具体例が示されている点で、
これについては、別の機会に示したいと思う。

もう一点、
強制収容所の体験はまさに絶対的な死に直面する体験であり、
それは、いわゆる
「死にゆく過程の5段階(否認⇒怒り⇒取り引き⇒抑鬱⇒受容)」をすべて含んでおり、
なおかつ、<受容>の先に死に至るのでなく、
再び、現実に向わなければならず、
その際に、
「生きる意味についての問いを百八十度転換する必要がある」と
フランクルが語っている点だ。

 「わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、
 生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ」
 
 「生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを
 思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。」
 
フランクルは、極限状況の中、倉庫に忍び込みジャガイモを盗んだ犯人を差し出す代わりに、
被収容者全員(2500名)が一日の絶食を課せられた夜に、
つまり、仲間を絞首台に送る代わりに、
わずかな栄養源である水のようなスープにさえありつけず断食を強いられ、
気分が最悪だった日の夕方、
居住棟の班長に促され、
次のようにみんなに語ったという。

 「(略)わたしは最後に、生きることを意味で満たすさまざまな可能性について語った。
 『人間が生きることには、つねに、どんな状況でも、意味がある。
 この存在することの無限の意味は苦しむことと死ぬことを、苦と死をもふくむのだ、』
 
 『わたしたちひとりひとりは、この困難なとき、そして多くにとっては
 最後の時が近づいている今このとき、
 だれかの促すようなまなざしに見下ろされている、
 だれかとは、友かもしれないし、妻かもしれない。
 生者かもしれないし、死者かもしれない。
 あるいは神かもしれない。
 そして、わたしたちを見下ろしている者は、失望させないでほしいと、
 惨めに苦しまないでほしいと、
 そうではなく誇りをもって苦しみ、死ぬことに目覚めてほしいと
 願っているのだ、と。』

生きる意味を外部に求め、問い続けても答えは出ない。
そうではなくて、死ぬことを受容した者は、また、現実に立ち戻る。
自身の現実こそが、問いであり答えである。
そのように自己に立ち戻った存在は、
あるまなざしに見下ろされている。
すなわち、自己を客観視する全体的な視線を獲得している。
そう、フランクルは言っている。

フランクルは、吉本隆明の言う「還相」の言葉を口にしている。
わたしにはそう見える。
わたしは、やっと「還相」を了解できた。
フランクルが教えてくれた。

☆小沢一郎を起訴議決した検察審査会の不正疑惑について
追及を続けてきた、「一市民T」が、
この冤罪捏造事件の黒幕が「最高裁事務総局」であったことを突きとめている。
※ブログ「一市民が斬る」参照

この日本という国を支配している権力システムの一つの頂点が、
これでまた白日の下にさらされてきた。
こういうことは非常に大事である。
権力は光を嫌い、
語られれば語られるほど力を弱めるものだからである。
それにしても、事務総局が司法を仕切っていたとは。
なんとも恥ずかしい国である。
20120128

インターネット広告の「トランスメディア」提供スキンアイコン # by sola-tuusin | 2012-01-28 20:08 | Trackback | Comments(0)

主体=思想を失った現代詩

No.340
☆キルケゴールの『死にいたる病』(松浪信三郎訳白水社)を読むと、
19世紀のヨーロッパにおいて、
いかに「自己」の問題が大きかったかがよくわかる。
そして、それ以降の歴史は、
国家システムが「自己」をどう取り込むか、どう管理するかという
統治性の展開に過ぎなかったことも。

キルケゴールは、結局、
キリスト教の神に対する信仰にたどり着かない者は、異教徒も含め、
すべて「絶望=死にいたる病」の状態にあると言っている。
これを笑っていられないのは、この論理は、現在にまで至り、
異国民を含め、あらゆる国民に、核兵器の脅威を振りかざし、
武力で「自己」の放棄を強いる、アメリカの国家主義に行き着くからである。

しかし、自己と神の間に国家など介在させない、キルケゴールの論理は、
わたしにはよくわかる。
自意識を巨大に膨らませた近代人が、
その先に信仰を見出すという構図は、
第三次産業、情報通信産業中心の消費社会にどっぷり浸かった現代人が
癌に至り、その先に自らの身体の生命力を見出す
という構図と同じだからである。
キリスト教の神などでなく、
それを「生命」と言い換えてくれればいいのである。

要するに、わたしたち現代人は、
特に、3.11以降の、福島原発爆発以降の日本人は、
アジア人として、
ヨーロッパ近代以降の歴史を問い直し、
新たに戦後を切り拓いていく、
その場に立っているのである。

☆この現在の状況から見ると、現代詩は、
わたしは毎年正月に雑誌「現代詩手帖」の年末特集号「現代詩年鑑」を読み、
そのときだけ現代詩に触れることにしているのだが、
「自己」の痩せ細った意識の先を自由に言葉に換えていくのはいいのだが、
主体を失った言葉ばかりで、そこには、
この現在の状況をつかんでいる言葉は見当たらなかった。

ただ、その中で、「今年度の収穫」というアンケートのコーナーで、
荒川洋治が答えているのに注目した。

 「(略)
  いま、「ある国」では、言論の自由さえおびやかされる時勢。災害「特需」ともいうべき、
 しまりのない、たれながしの詩集、歌集が出るなど、事態の単純化が目立つ。時節柄、
 誰もことばをはさめないのをいいことに、ますます彼らは増長。詩とはその程度のものと
 見られるのだから、正しくは、詩の「被災」である。(略)」

わたしも、年鑑の「2011年代表詩選」として挙げられた中に、
松浦寿輝の「afterwards」という詩を読んだときは、
そのあまりの優等生ぶりに、
なんだこれは? と思ったものだ。
しかも、朝日新聞(3月29日)に

 「心の水面を波立たせず 静かに保つ
  少なくとも保っているふりをする
  その慎みこそ「その後」を生きる者の
  最小限の倫理だと思うから」

と書く、その政治性のいやらしさに、
最初は、作品全体を採り上げ、批判しようとも思ったが、
バカらしくなってやめた。

代わりに、わたしが最も魅かれた作品を引用する。

 「   花を奉る        石牟礼道子
 
  春風萠(きざ)すといえども われら人類の劫塵(ごうじん)いまや累(かさ)なりて 
  三界いわん方なく昏(くら)し
  まなこを沈めてわずかに日々を忍ぶに なにに誘(いざな)わるるにや 虚空は
  るかに 一連の花 まさに咲(ひら)かんとするを聴く
  ひとひらの花弁 彼方に身じろぐを まぼろしの如くに視(み)れば 常世なる
  仄明りを 花その懐に抱けり
  常世の仄明りとは あかつきの蓮沼にゆるる蕾(つぼみ)のごとくして 世々の
  悲願をあらわせり かの一輪を拝受して 寄る辺なき今日(こんにち)の魂に奉ら
  んとす
  花や何 ひとそれぞれの 涙のしずくに洗われて咲きいずるなり
  花やまた何 亡き人を偲ぶよすがを探さんとするに 声に出(いだ)せぬ胸底の
  想いあり そをとりて花となし み灯りにせんとや願う
  灯らんとして消ゆる言の葉といえども いずれ冥途の風の中にて おのおのひとり
  ゆくときの花あかりなるを この世のえにしといい 無縁ともいう
  その境界にありて ただ夢のごとくなるも 花
  かえりみれば まなうらにあるものたちの御形(おんかたち) かりそめの姿なれども 
  おろそかならず
  ゆえにわれら この空しきを礼拝す
  然(しか)して空しとは云わず 現世はいよいよ地獄とやいわん 虚無とやいわん
  ただ滅亡の世せまるを待つのみか ここにおいて われらなお 地上にひらく 一輪の
  花の力を念じて合掌す
                                        二〇一一年四月二十日
  ―「環」46号、7月 」

わたしは石牟礼に関しては全くの無知で、
その詩に触れたのも初めてだと思う。
どのようにしてこの文語体に行き着いたのかも知らないが、
現在の状況において、
この言葉を発する主体は、貴重だと思う。       
20120122

インターネット広告の「トランスメディア」提供スキンアイコン # by sola-tuusin | 2012-01-22 21:16 | Trackback | Comments(0)

自己と主体の関係 主体と自己の関係

No.339
☆昨年末から2週間かけて、
M.フーコーの『主体の解釈学』(廣瀬浩司・原和之訳 筑摩書房)を読んだ。

一言でいえば、もちろんフーコーを一言でなど括れるわけはないのだが、
わたしの関心に絞れば、
フーコーは、自己と主体を分離し、
近代以降の張りつめて痩せ細った「自意識」に主体を取り戻してみせた、と言えるだろう。
しかもその徹底した論理で、ということだ。

これには、わたしには、1978年 日本での吉本隆明との対談が
影響を与えているように見える。
そして、吉本自身、フーコーの「自己への配慮」という概念を高く評価し、
特にこの『自己の解釈学』を挙げていたことを考えると、
わたしには吉本の「自立思想」が
フーコーの「自己への配慮」に重なって見えてくる。

フーコーは、近代を遡り、
キリスト教以前の、古代ギリシア思想にまで遡り、
主体と自己の関係を、
その史的変容を
明らかにする。
その方法は、
吉本が〈アジア的段階〉さらには〈アフリカ的段階〉にまで遡り、
史観を拡張した方法に重なってくる。

たとえば、癌に侵された身体が、
手術後、回復する過程で、食事を一新し、
改めて身体そのものを主体として取り戻すように、
あるいは、
共同幻想に侵された自己が、時間性をリセットし、
自身の自然である身体を新たに取り戻し
主体とするように、
現在の思想においては、
主体と自己の関係、
そして、主体と自己と他者の関係が、
その統治性が
最大のカギとなる。
結局、権力の問題はそこに行き着く。

☆今でも、自分たちが前衛だと思い込んでいるバカな党が万年野党で安穏としているように、
あるいはまた、
小沢一郎の政治理念など理解できずにくっついていただけで、
官僚たちの策略でたまたま政権を握ることのできたバカな政治家が
権力を持ったとたん、
スターリニストの本性丸出しで、党内の政敵を粛清し、
国民に対してはただ従わせるのが自分たちの仕事だと思い込み、
言論を統制すれば嘘もばれないと言い張り、
政治をめちゃくちゃにしてしまったように、
そこには国民を自立した存在だと捉える視線が欠除している。

もちろん、自分たちを選良だと思い、国体だと思い込み、
先住民=国民を従わせることが仕事だと今でも思いこんでいる官僚も、
文字どおり、先住民を侵略し尽くし、
今でも後進国を侵略するのが自分たちの使命だと思い込んでいる「アメリカ」も、
同じである。
自分たちを知識人だと勘違いしている日本の新聞・テレビなど、
もはや採り上げるに値しない。

ここに、わたしたちの状況がある。
自己と主体の関係、ここがわたしたちの戦場である。
ここからわたしたちの場が広がる。
20120115

インターネット広告の「トランスメディア」提供スキンアイコン # by sola-tuusin | 2012-01-16 00:00 | Trackback | Comments(0)

官僚は国民の生活より「国体」を優先する

No.338
☆正月3日に批評社のPR誌「Niche no.27」が届いていた。
その中の「ある参謀将校の独白」(副田 護)という記事に目が止まった。
先の大戦時に、大本営陸軍部(参謀本部)
参謀将校(陸士46期からトップで陸大52期に入学した中佐参謀)だった人から、
1995年秋に直接聞いた話だという。

 「軍隊は国家防衛を第一の義務とします。有事の際、守るべきは国家であって
 国民ではないのです。」
 
 「国体を定義すれば、一般的には「天皇制による国家体制」と理解されています。
 ここで誤解されやすいのが、「天皇制」という言葉です。万世一系たる天皇を頂点と
 するのが「天皇制」であり、「天皇」と同一ではありません。つまり国体は「天皇による
 国家体制」ではないのです。
  先述したように、日本陸海軍は国家を守るために存在していました。この国家には
 国民、国土などが含まれますが、最も重要だったのは国家と同じ意味を持つ国体でした。
 ソ連侵入のとき、国民である居留民を捨て、当時は日本国土であった満州大半を捨てて
 後退した関東軍を見てもおわかりになるでしょう。「天皇制による国家体制」を守るため
 には、国民、国土は捨てられるのです。
  ご存知のように、広島、長崎に原爆が投下され、ほとんど継戦能力がなくなった
 昭和20年8月においても、日本陸海軍には継戦を主張する軍人が多くいました。
 参謀本部内にもその数は少なくはなく、私もそのひとりでした。
  ポツダム宣言に関する情報は入っていました。無条件降伏するかどうかという
 瀬戸際にあって、我々参謀将校の関心はただ一点、国家存続を意味する国体の
 護持でした。国体の護持が保証されなければ、ポツダム宣言は受け入れられないと
 考えていたのです。
  ところが国体の頂点にいる天皇が、万世一系であり神聖不可侵である天皇が、
 国体を否定するポツダム宣言に同意して受容しようとしている。これは軍人として
 到底納得できるものではありません。なぜなら、軍人は天皇の股肱の臣として
 統帥大権の下に戦ってきていたからです。北満から南方まで、日本陸軍が戦って
 きたのは、ただ国体の護持、それだけが目的でした。おかしなたとえですが、
 二階に上がって梯子をはずされた、という受け止め方しかできなかったのです。」

この将校は、かといって
「天皇が天皇たりえずんば退位求むるもやむなし。万世一系かつ国体護持を絶対条件とする
正当な天皇の即位を求む」といって宮城事件を起こした近衛師団ほどには踏み切れず、
悩んでいるうちに8月15日を迎えたという。

そして、戦後、しばらく経ってから、陸大同期の恩賜組だった友人から聞いた話を挙げている。

一人は、反乱した近衛師団と同じく、
「天皇が「天皇制」を否定したあのとき、天皇に退位を勧めて万世一系の「天皇制」を守ること、
国体を護持することが軍人の義務ではなかったろうか」という意見。

もう一人は、
「国体護持に、我々があれほどこだわったのは、それが帝国陸海軍護持と同じ意味を
持っていたからである。帝国陸海軍の存在意義が国体護持にあったのは、国体の中でのみ
生き続けられたからだ。軍隊といえども官僚組織である。官僚は組織を防衛するために
手段を選ばない。昭和20年8月の帝国陸海軍内で見られた、軍隊組織を守ろうとした
軍人の姿は醜悪の一言だ。それなのに陸海軍軍人の中には、敗戦の責めを自ら負うことなく
自衛隊に入隊したものがいる。あの軍隊・軍人の醜悪さを知って再び自衛隊に籍を置く、
なにをかいわんや、である」と話したという。

二人の話を聞き、この将校は素直にうなずけなかったという。

☆「Niche no.27」の発行日は2012年1月1日となっており、
17年も前のインタビューを
福島原発爆発後のこの敗戦状況において載せるのは、
それなりの意図があってのことだろう。

ここで語られているのは、日本の官僚の本音だろう。
今も何も変わってはいない。
奴らにとって大事なのは天皇ではなく、
国体=自分たちの組織なのであって、
ポツダム宣言受諾後は
天皇の上に立つアメリカを
奴らにとっての国体としたのである。

そのアメリカから贈られた「御神体」こそが
原子炉にほかならなかった。
官僚たちは
今もそれを国体として必死に守っているのである。

官僚たちにとって護持すべきなのは、
国土でもなく国民でもない。
だからこそ、「国民の生活が第一」と唱える党が政権を取ることは
阻止しなければならなかったのであり、
小沢一郎の秘書逮捕に踏み切った東京地検特捜部の心性は、
64年前のエリート将校たちの心性とそっくり同じであった。

そんなバカなことがあるか。
いや、これこそが日本の現実なのである。
この倒錯した心性を持ち続ける者たちが
日本の権力システムを独占して、
今もそれを死守しようとしている。
その実態がようやくこうして活字になったり、
インターネットで明らかになってきているのだが、
国民が国家をリコールできるまでには、
まだまだ長い道のりを要す。
アメリカでさえ、国民が選んだオバマが期待に応えてくれないことを知り、
国民主権とは名ばかりであることに気付き、
やっと国民が立ち上がり始めたところだ。

日本の小沢一郎もそれなりに頑張ってはいるが、
敵は既に4月の判決をもって衆議院の解散総選挙に打って出る用意を始めており、
一気に小沢陣営を、
すなわち「国民」を押し潰すつもりである。

わたしたちはまた敗北するだろう。
そして、また、自立への道を一歩進むことになる。
わたしたちもまた
負けても負けないからである。
20120108

インターネット広告の「トランスメディア」提供スキンアイコン # by sola-tuusin | 2012-01-08 23:54 | Trackback | Comments(0)

「必敗者」は負けても負けない

No.337
☆日本政府=官僚=財界=マスコミ=アメリカは、
この敗戦後のどさくさにまぎれ、しかも国会閉会後の年の瀬に、
武器輸出三原則緩和と消費税増税を決定したと発表した。

これは、1994年、あの自社さ政権下、
社会党の村山富市が自衛隊を合憲としたのと同じである。
同じことが起きている。
なんということだ。
民主党が分裂し弱体化している隙に、
官僚はいとも簡単に自分たちの思惑通りに事を進めている。
もはや憲法9条の精神の欠けらもない官僚どもが、
弱体政権を利用して一気に攻めているのである。
小沢一郎の下でくすぶっていたハエどもを操るのは
いとも簡単なことなのだろう。

ハエに権力を持たせてしまった。
それがわたしたちの敗北である。
政権交代で、オバマの「チェンジ」に続き、
簡単にこの国のシステムが変わると安易に思い込んだわたしたちは、
その責任を問われているのだ。

わたしたちは2011年3月11日以降、
東日本の大震災、東北地方の大津波、
そして福島原発の爆発をもって完全に敗北し、
転向を迫られている。
1945年の敗戦以降の戦後社会が完全に敗北したのである。
アメリカ=官僚主導の国家資本主義が敗北したのであり、
それを変えられないわたしたちが敗北したのである。

もちろん勝者などどこにもいない。
国破れて山河あり、自然が勝者と言いたいところだが、
その自然も放射能に汚染されて、
この先、いつまで生産性を阻害されたままなのか、
それさえ不明である。

要するに、ヨーロッパ近代以降の
国家を中心とした生産システムの欠陥が顕わとなり、
もう一度、人間と自然との関わりを、
自己と生命としての身体との関わりを
問い直さなければならないのである。
もちろん、情報通信の発達した現在においてである。
「清貧の思想」などといったちゃちな考えで対処できる問題ではない。
先祖帰りなどは、ただの反動でしかない。

例えば、食事療法で有名なのに「粗食のすすめ」というのがあるが、
うちのカミさんなどは全く魅力を感じず、
あんな食事は男の発想で貧しいと斬って捨てる。
調味料をほとんど使わなくても味の追求はできるし、
価値の追求を怠ることはできないのである。
価値ではなく利益の追求でめちゃくちゃになったわたしたちの生活を、
貧しくするのでなく、
より豊かにするために転位しなければならない。
わたしたちはその試行錯誤の
きつい状況に突入しているのである。

「カレイドスコープ」というブログで紹介されていたのだが、
元経産省官僚古賀茂明が
農業、医療、再生エネルギーの三つを
今後の成長産業だとテレビで言っていた。
考えてみれば、
どれも「自然」との関わりを問い直すものであることがわかる。

わたしたちの生活は、
各自が自分にとって本当に必要な物、本当に良い物だけを消費するようになれば、
テレビで宣伝している商品など
どれも不要になってしまうだろう。
わたしなどはコンビニに行っても、
ミネラルウォーター以外の食料品は全て口にできない。
買える物など一つもないのである。
歯磨きも、ブラシがあればオーケー。歯磨き粉など毒物でしかない。
昔わたしの父などは歯ブラシに食塩をつけて磨いていたが、
塩さえいらない。
むしろ、癌を患った身に食塩は「天敵」である。
砂糖も「天敵」、肉も牛乳もそうだ。

テレビの宣伝広告などとは無縁の、
わたし個人にとっての豊かな生活を追求すること。
それを基盤とした地域社会を築いていくことだ。
国家主導の社会などもはやあり得ない。

☆作家の世川行介が自分のブログで、
1月10日午前9時半、霞が関の東京地裁前をお散歩しよう、
と呼びかけている。
小沢一郎を激励するためだ。
ただそのためだけに全国から集まり、
そして解散する。
小沢が有罪になっても、彼は激励し続けると言っている。
けっして組織化しない、
自立した個人の運動は、
集まって、解散し、
そして、また集まる。
負けても負けない。

あいにく10日は定期検診の日で、わたしは行けないが、
小沢同様、必敗の人生を歩む世川が
彼なりに考え尽くした行動を
わたしは応援する。

☆12月30日(金)に奥多摩の川苔山(川乗山)に登って来た。
初めて単独で、電車とバスを利用して登った。
6時31分に家を出て、午後4時31分に帰宅。
初めて電車で山に出かけたため、あわててカメラを忘れてしまった。

一年前の30日は退院後一ヶ月、
ケーブルカーで御岳山駅まで上がり、
となりの日の出山まで往復するのがやっとだった。
去年の目標だった雲取山は、またお預けになったけれど、
代わりに、川苔山(1363m 標高差登り約950m、下り約1050m)を
5時間弱で登って来た。
もう、わたしの体は人並みに山歩きできるまでになった。

この日は寒く、
登山道も頂上が近くなると日蔭は解け残った雪で薄く凍っていた。
山頂は晴れて青空の下、
雪の富士山からぐるっと360度見渡せた。
20120101

インターネット広告の「トランスメディア」提供スキンアイコン # by sola-tuusin | 2012-01-01 23:05 | Trackback | Comments(0)

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