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ロンドン*パリ*モントリオール

No.250
☆Adam Lambertは、やはり予想を超える規格外の人間であった。
最初から日本では「For Your Entertainment」を披露するつもりだったようで、
バンドの代わりにアメリカから呼んだダンサー4人といっしょに、
朝のワイドショーのスタジオで歌って見せたのだった。
もちろん、15日の夜に小さなクラブの会場で見せた、
セクシャルなパフォーマンスに比べれば、
極限まで抑えたものだったが、
それでも日本人にはとてもまねできないほど、
衣装もメイクもギラギラで、
しかもバンドがいないからカラオケにもかかわらず、
歌もダンスも決してレベルを落とさず、
パーフェクトに演じきる。
それまでの、例の、日本の芸能人のおバカトークにつき合って、
すぐに、その場に合ったレベルで「For Your Entertainment」を歌いこなす。
その何段階にも自己表出のレベルをコントロールでき、
それをスムーズに、断絶なく、
日常から非日常の歌の世界へと行ったり来たりできる
ことがスゴいのだ。
大したヤツだぜ。
そのAdamも今はロンドンだ。

それにしても、ブログを見れば、
日本のAdamファンのレベルは相当高いと言えるのだし、
自分たちで「Adam Tシャツ」を作って、着て、
Adamを出迎えたりまでしてるのだから、
間に、ソニーなどを通さず、直接ファンがAdamと交渉して、
イベントを企画するべきだろう。
時代はそこまで来ているのだが、
「ファン」を常に受け身にしておく統治意識が作用していて、
傍から見ていると不愉快というかもどかしい。

☆しかし、成田は遠かった。
朝、4時半に家を出て、新宿から高速を乗り継いで、
空港に着いたのは6時ぐらいだったか。
2時間もかからなかったが、遠く感じるのは、
首都高のカーブの多さに、上り下りの連続、
そして、京葉道路から東関道への乗り換えのめんどくささが原因だ。
どうして一本に、すっきり行かないのかというと、
真ん中に巨大な空虚=皇居を抱え込んでいるからだ。
まるでわたしたち日本語の構造そのものであるかのように。

☆わたしたち日本語の構造は、真ん中に空虚を抱え込んでいる。
具体的にいうと、文頭の「~は」から、文末の「述語」までの間が空虚であり、
そこに話すべきことが呼び込まれる。

 ① 机の上に本がある。
 ② この本、母が私にくれた本

 ③ 昔々、おじいさんとおばあさんがありました。
 ④ おじいさん山へ柴刈りおばあさん川へ洗濯に行きました

まず①と③のように、客体が対象として指し示される。
これは、鏡像を自己の像だと気づく前、
あるいは気づいた瞬間に当たっている。
この場合、自己は対象から分離されている。
それは、対象が一つの対象として限定され特定され、他を排除しているからだ。

そして、②、④のように、
「~は、」で同じ対象をもう一度捉えなおすことで、
対象は概念化され、主体化され、場面が設定される。

同じことを浅利誠が『日本語と日本思想』(藤原書店)で言っている。
彼の場合、助詞の定義から入っていて、
格助詞の定義、そして係助詞「は」と格助詞の「境界確定」を
徹底した論理で推し進めていく。
彼もまた、カナダで日本語を教える金谷武洋と同じく、
フランスの大学で日本語を教えている。
その現場での体験に基づく理論の展開には、全く異存はない。
但し、彼の論はあくまでも助詞についての構文論であり、
述語における自己との関係には触れられていない。
そのため、「~は」は助詞の次元をはるかに超えた述語の次元にある、
と本質を捉えていながら、
それ以上に進んでいない。
浅利理論の今後の展開が期待される。
20100320

インターネット広告の「トランスメディア」提供スキンアイコンby sola-tuusin | 2010-03-20 15:54 | Trackback | Comments(0)

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